2025年11月14日卓話要旨
「日比谷公園の歴史」
(株)日比谷松本楼 代表取締役社長 小坂 文乃 氏
(久保和人会員紹介)
日比谷公園は日本で最初の西洋式公園です。明治期に西洋の文化を市民に知らせようと、都市の中心に公園があるのを真似て企画され、花壇・音楽・食事、3つの洋を取り入れて作られました。今では当たり前の花壇ですが、当時は菊や花菖蒲しかなかったのでバラなど西洋式の花壇が考えられました。公園という概念が無い中での設計は難しく、白羽の矢が立ったのが本多静六先生です。西洋式でありながら心字池や雲形池など和の要素取り入れた「幕の内弁当」のような空間を作りました。明治36年に開園。花盗人を心配する声もあったようですが、本多先生は公徳心を養うため門を開放。今でも終日開放しています。
樹木は松・檜・桜など約300種類。松本楼前の樹齢約500年・高さ22m・幹周り6mの大イチョウはパワースポットです。本多先生が公園のシンボルとして中心に植えたいと、反対を押し切って旧鍋島藩邸前から436mもの距離を移植しました。自らの進退を懸けて動かしたことから「首賭けイチョウ」と呼ばれるサラリーマンの聖地です。
園内の小音楽堂では毎週音楽会が開かれ、野外音楽堂や日比谷公会堂では多くの著名なコンサートが行われてきましたが、いずれも耐震工事のため今は使用できません。西洋の食を広めるため松本楼が開店。洋食のPRに一役買ったのは明治の文豪たちです。夏目漱石『野分』には血の滴るようなステーキ食べたことが描かれています。大正期になると松本楼でカレーやコーヒーを楽しむ習慣がモボ・モガの象徴となりました。
日比谷公園は首都の中心にあることから多くの歴史に巻き込まれました。まず1905年の日比谷焼打事件。関東大震災では木造だった初代松本楼が焼失。戦時下には海軍に接収されました。戦況悪化とともに公園は芋畑となり、更に遺体焼却場まで設けられ、公園機能を失いました。激しい空襲にも焼け残りましたが、松本楼を含む公園全体が米軍に接収され、営業できない日々が6年半続きました。祖父や父は松本楼の屋根裏に米軍の許可を受けて住んでいたそうです。
1951年に営業再開。しかし1971年になると学生運動が激化。銀座焼討ちを企図して集結した過激派学生を機動隊は公園内に封じ込めました。行き場を失った学生達は火炎瓶を松本楼へ投げ込み、建物は瞬く間に全焼。公共的な場所にありますが、ファミリービジネスでしたので、再建が危ぶまれるほど追い込まれました。
しかし、多くのお客様から励ましの手紙を頂き、又、記者クラブの新聞記者たちが記事にして下さったことで全国的ムーブメントとなって銀行の融資が決まり、現在の建物が建ちました。再建の記念日には、お馴染みのカレーをチャリティとして提供しています。10円カレーで始まり、今は創業年数に合わせて122円以上で提供しています。55年間、累計3千万円以上が被災地支援や子どもたちのための基金に寄付されています。
皆さんご存知の東京音頭は日比谷公園で生まれました。昭和7年、何とか不景気を追い払いたいと考えた祖父は、地方でやっているという盆踊りを東京でも出来ないかと、作詞を西条八十先生、作曲を中山晋平先生に頼んで、丸の内音頭を作って頂きました。歌詞は違いますがメロディは同じです。その後、日比谷公園百周年の時に、父が「丸の内盆踊り大会」を復活させました。今では2日間で約6万人が集う大盆踊り大会となり、東京夏の三大夏祭りに育って参りました。
もう一つの歴史は母方の曽祖父の話です。曾祖父 梅屋庄吉は中国の革命家孫文を生涯にわたり物心両面で支援しました。映画会社日活の創設者であった曾祖父が映画で儲けたお金をアジアの平和という大きな夢に注いだことは、日本ではあまり知られていませんでしたが、2008年の胡錦濤国家主席来日に際し、友好の印として、孫文と梅屋庄吉の歴史的資料を日中両首脳にご覧頂くという一幕がありました。それ以降、アジアの方々には日比谷公園がアジアの友好の架け橋の場所とも言われています。
現在、日比谷公園は大規模な再開発中で大噴水も取り壊されたままです。当初は2026年3月に工事完了予定でしたが、更に1年延期となりました。帝国ホテルなどエリア全体を建て替える構想ですが、全体の完成時期は不明です。松本楼は西洋の文化を伝えるという使命を終えた今、日本の隠れた食材や職人さんたちの思いを込めた食材を東京の中心から発信するレストランにしたいと取り組んでいます。
7月11日卓話要旨
「『べらぼう』では放送されない蔦重のうら話」
株式会社伊場仙 代表取締役 吉田 誠男 氏
当社は江戸の地本問屋、いわゆる版元の伊場屋仙三郎、略して、「伊場仙」です。1600年初頭に遠州(現 浜松市)から家康と共に江戸へ来て開発に従事し、その後も残って紙と竹の卸問屋を営む実業の道へ進みました。18世紀に、今の本業である団扇の製作を始めました。江戸には版元が約280社あり、その8割が日本橋に集中する激烈な競争でした。団扇が本業、浮世絵は副業です。
浮世絵の基礎知識を少しお話します。有名な「東海道五十三次の内日本橋」といえば、絵師は歌川広重。しかし、広重がこの絵を全部作ったのではありません。誰をターゲットにするか、色調はどうするかなど、版元が企画し出版方針を決めます。風景が得意な広重に任せようとなるとデッサンを指示。絵師の仕事は半紙に墨でデッサン(下絵)を書くだけです。下絵を受け取った版元はそれを彫り師に渡します。浮世絵の価値は約80%、この彫り師の技で決まります。出来た版木は版元から摺師に渡され、摺り上がった浮世絵と版木が版元に戻ると、出版・販売という構図になっています。当社が歌川豊国に描かせた歌舞伎役者の団扇絵には「豊国」と彫り師の「彫竹」というサイン、そして版元印が入っています。
日本の浮世絵がゴッホやモネなど海外の美術に大きな影響を与えたという話があります。では、浮世絵師に独創性があったかというと、それは少々疑わしいです。国芳が描いた「忠臣蔵十一段目夜討之図」は、オランダ人ニューホフの描いたバタビア(現ジャカルタ)の風景を真似たと言われています。浮世絵師も意外と西洋の絵を見ています。又、葛飾北斎「神奈川沖浪裏」も、よく訪れていた千葉県いずみ市行元寺の欄間を真似たのではないかと言われています。
当社の団扇絵の一つ、松葉屋花魁「花の井」の図は、鳥山検校による身請事件の手紙を真剣に読んでいるシーンを描いたものですが、これを見た外国人は、花魁が文字を読めるのかと驚きます。18世紀フランスの識字率は、男性10~15%、女性7~10%、対する江戸は、男性5割、女性3割。蔦屋重三郎が商売できた背景には識字率の高さがあります。
蔦屋重三郎の浮世絵には版元印と改印しかありません。彼は身ひとつで日本橋へ来て、彫り師と摺師を連れて来なかったので、我々歌川派の彫り師を拝借したのではないかと思います。彫り師は今までの仕事を失ってしまうので、名前は出せず、印が無いのではないかと。私共の絵師が所属している歌川派は強大な画壇でした。幕府が歌川派に賄賂を渡して情報操作に利用するほど勢力があったようです。当社が出版した「源頼光土蜘蛛妖怪の図」に描かれている武将のうちの一人が沢瀉(おもだか)という家紋の紋付きを着ています。当時、天保年間に幕閣で沢瀉の紋をつけている人はただ一人、水野忠邦。つまりこの絵は水野忠邦の「天保の改革」を批判している絵なのです。こんなものを出すと取り潰しになってしまうので、よく出版したと思います。歌川派は幕府とつうつうですから、水野忠邦を失脚させようと浮世絵を使って江戸市中の情報操作をするわけです。浮世絵の世界は魑魅魍魎、実際に天保14年の春に出版した後、秋に失脚しています。
歌川派の版元にとって蔦屋重三郎の評判は「あいつぁとんだ鼻つまみ者!長くは続かないぜ!」などと聞いていますが、大首絵の独特なアングルは歌川派にも大きな影響を与えたので、あながち鼻つまみ者でもないのです。歌川派は組織もお金もあって、特に、大河ドラマで西村まさ彦氏が演じる西村屋与八などは、歌舞伎絵の出版権など特権を持っていました。耕書堂は三代で没落します。版元からすると、日本橋に乗り込んでくるということは、歌川派と戦うつもりという話です。歌川派の牙城に乗り込んでくるのですから、重三郎はかなりの自信があったのではないかと思います。
海外へ優れた浮世絵が流出したという話を、よく耳にすると思います。浮世絵を大量に売りさばいた林忠正は国賊と言われていますが、これは嘘です。海外の美術館等に100万点の浮世絵があると推定されていますが、そのようなことはあり得ません。江戸の浮世絵は歌舞伎のブロマイドですから、捨ててしまいます。では何故か。我々、生き残った版元は、手元に版木があって、彫り師も摺師もいたので、明治維新以降、どんどん摺れたのです。当社は関東大震災の前日までやっていました。「犯人」が言うのですから間違いありません。
