7月11日卓話要旨
「『べらぼう』では放送されない蔦重のうら話」
株式会社伊場仙 代表取締役 吉田 誠男 氏
当社は江戸の地本問屋、いわゆる版元の伊場屋仙三郎、略して、「伊場仙」です。1600年初頭に遠州(現 浜松市)から家康と共に江戸へ来て開発に従事し、その後も残って紙と竹の卸問屋を営む実業の道へ進みました。18世紀に、今の本業である団扇の製作を始めました。江戸には版元が約280社あり、その8割が日本橋に集中する激烈な競争でした。団扇が本業、浮世絵は副業です。
浮世絵の基礎知識を少しお話します。有名な「東海道五十三次の内日本橋」といえば、絵師は歌川広重。しかし、広重がこの絵を全部作ったのではありません。誰をターゲットにするか、色調はどうするかなど、版元が企画し出版方針を決めます。風景が得意な広重に任せようとなるとデッサンを指示。絵師の仕事は半紙に墨でデッサン(下絵)を書くだけです。下絵を受け取った版元はそれを彫り師に渡します。浮世絵の価値は約80%、この彫り師の技で決まります。出来た版木は版元から摺師に渡され、摺り上がった浮世絵と版木が版元に戻ると、出版・販売という構図になっています。当社が歌川豊国に描かせた歌舞伎役者の団扇絵には「豊国」と彫り師の「彫竹」というサイン、そして版元印が入っています。
日本の浮世絵がゴッホやモネなど海外の美術に大きな影響を与えたという話があります。では、浮世絵師に独創性があったかというと、それは少々疑わしいです。国芳が描いた「忠臣蔵十一段目夜討之図」は、オランダ人ニューホフの描いたバタビア(現ジャカルタ)の風景を真似たと言われています。浮世絵師も意外と西洋の絵を見ています。又、葛飾北斎「神奈川沖浪裏」も、よく訪れていた千葉県いずみ市行元寺の欄間を真似たのではないかと言われています。
当社の団扇絵の一つ、松葉屋花魁「花の井」の図は、鳥山検校による身請事件の手紙を真剣に読んでいるシーンを描いたものですが、これを見た外国人は、花魁が文字を読めるのかと驚きます。18世紀フランスの識字率は、男性10~15%、女性7~10%、対する江戸は、男性5割、女性3割。蔦屋重三郎が商売できた背景には識字率の高さがあります。
蔦屋重三郎の浮世絵には版元印と改印しかありません。彼は身ひとつで日本橋へ来て、彫り師と摺師を連れて来なかったので、我々歌川派の彫り師を拝借したのではないかと思います。彫り師は今までの仕事を失ってしまうので、名前は出せず、印が無いのではないかと。私共の絵師が所属している歌川派は強大な画壇でした。幕府が歌川派に賄賂を渡して情報操作に利用するほど勢力があったようです。当社が出版した「源頼光土蜘蛛妖怪の図」に描かれている武将のうちの一人が沢瀉(おもだか)という家紋の紋付きを着ています。当時、天保年間に幕閣で沢瀉の紋をつけている人はただ一人、水野忠邦。つまりこの絵は水野忠邦の「天保の改革」を批判している絵なのです。こんなものを出すと取り潰しになってしまうので、よく出版したと思います。歌川派は幕府とつうつうですから、水野忠邦を失脚させようと浮世絵を使って江戸市中の情報操作をするわけです。浮世絵の世界は魑魅魍魎、実際に天保14年の春に出版した後、秋に失脚しています。
歌川派の版元にとって蔦屋重三郎の評判は「あいつぁとんだ鼻つまみ者!長くは続かないぜ!」などと聞いていますが、大首絵の独特なアングルは歌川派にも大きな影響を与えたので、あながち鼻つまみ者でもないのです。歌川派は組織もお金もあって、特に、大河ドラマで西村まさ彦氏が演じる西村屋与八などは、歌舞伎絵の出版権など特権を持っていました。耕書堂は三代で没落します。版元からすると、日本橋に乗り込んでくるということは、歌川派と戦うつもりという話です。歌川派の牙城に乗り込んでくるのですから、重三郎はかなりの自信があったのではないかと思います。
海外へ優れた浮世絵が流出したという話を、よく耳にすると思います。浮世絵を大量に売りさばいた林忠正は国賊と言われていますが、これは嘘です。海外の美術館等に100万点の浮世絵があると推定されていますが、そのようなことはあり得ません。江戸の浮世絵は歌舞伎のブロマイドですから、捨ててしまいます。では何故か。我々、生き残った版元は、手元に版木があって、彫り師も摺師もいたので、明治維新以降、どんどん摺れたのです。当社は関東大震災の前日までやっていました。「犯人」が言うのですから間違いありません。
9月5日卓話要旨
「千代田区における食を通した居場所づくりと参加者の支援」
社会福祉法人 千代田区社会福祉協議会 中谷 瑛彦氏
子ども食堂 「みりおん家(ち)」 代表 髙橋 紀代子氏
千代田区は人口動向や居住形態などデータから、子育て世帯が増加し、その多くは共働き世帯。マンション等の集合住宅に暮らしている。従って千代田区のパパママは忙しい。更にセキュリティの高いマンション住まいが多く、引っ越してから日が浅い方が多いことから、町会などの地域活動に参加している人も少ないので、地域の中で子育て相談の機会が減っているのではないか!? 子どもたちは親や学校の先生以外の「地域の大人」と接する機会が減っているのではないかと、地域特性が推測されます。
実際に社協には「知らない人には挨拶をしないようにと教わっている」という話や、「共働きで忙しくて塾や習い事漬けで子どもに余裕がない」、「不登校の学生が多く、学習の遅れがある」、「障がいのある子どもたちが地域に溶け込むことが難しい」など、推測を裏付けるような相談が寄せられています。
社協の活動計画「はあとプラン」では「つどう・気づく・ささえる・つなぐ」という四つの目標を掲げています。これらの機能を併せ持つのが子ども食堂です。現在、千代田区で定期的に活動をしているのは6ケ所。そのうち4ケ所はボランティアが運営しているもので、2ケ所は飲食店です。
2年程前に「はあとプラン」を策定した際、千代田区における子どもと保護者を取り巻く課題が分かってきたことを受けて実施されたのが「食と居場所の学習会」です。その中で住民の皆さんと話し合ってできたのが「みりおん家」です。ネーミングも、カレーを出すというアイデアもメンバーの発案です。当初は社協の事業でしたが、今年4月からはボランティアグループとして自主的に活動しています。
学校やスクールソーシャルワーカー(SSW)からの相談も増えました。「保護者がネグレクト気味で栄養が取れているか心配」などの相談が社協に入ると、みりおん家に繋ぎます。親御さんにとっては子育ての悩みをボランティアさんや社協の職員、あるいは参加者同士で話すことができますし、お子さんにとっては栄養のある食事が出て、ボランティアのお兄さんお姉さんと遊んでもらえたり、新しい友達ができたり、地域と繋がる場所になります。勉強を教えて欲しいというニーズもあり、社協が近所の学生ボランティアを斡旋し勉強を見てくれる場所としても機能しています。
社協は寄付やボランティアの相談を繋ぐほか、昨年は区内で活動する子ども食堂が集まる連絡会を初めて実施しました。運営の課題やノウハウを共有できるようなつながりづくりを促進しています。みりおん家の立ち上げ以前は子ども食堂の数も少ない千代田区には、あまりニーズがないと思っていましたが、蓋を開けてみると多くの人が集まりました。食を通した居場所づくり、都心部だからこそ求められる居場所の形があって、集まった皆さん(参加者自身も含む)で安心できる居場所を作っていくことが社協の基本理念「みんなが参加し、ささえ合うまちづくり」に繋がるのではないかと考えています。
子ども食堂「みりおん家(ち)」代表の髙橋と申します。月に一度、最後の月曜日に開催しています。ひとり親の方は優先枠で、あとは申込制ですが、毎月、申込日の朝に、ほとんど埋まってしまいます。私は民生委員もやっているので、お母様達からあの子が心配だ、この子が心配だ、という話もよく入ってくるので、SSWと相談して「何かあったら、みりおん家へ連れて来て」という感じでやっています。
2月の豆まきの時は大豆を入れたカレーにしたり、クリスマスには高校生だった孫たちが可愛いケーキを作ってくれたり、その月に合わせた献立です。なるべくお野菜を摂らせたいので、必ずサラダとスープをつけています。「ここに来ると野菜サラダを全部食べるんだよね」と言っていて、そのうち家でも食べるようになったという嬉しい話や「子どもを見てもらえるので座ってご飯が食べられて嬉しい」というお母さんもいます。ひとり親家庭の子がけんちん汁を食べたことがないと言って4杯もおかわりしてくれるのを見ると、サポートしなくてはならないと思わされます。 他人の家庭に入り込んで何かお手伝いするのは凄く難しいですが、来て頂ければいくらでも話ができます。「おばあちゃんに話してごらん」と言うと、結構話してくれるので頑張っています。麹町や神田の方でも、みりおん家のような子ども食堂をやりたいと仰る方が何人かいて裾野が広がってきていますので、是非ご協力の程よろしくお願い致します。
